riarusennjougahara

sennjougahara1



こんばんは。
戦場ヶ原の私説の続きを書いていきます。
 

【戦場ヶ原戦譚】

戦場ヶ原の観光スポットに池が血で染まったという赤沼があります。 
この沼が血で赤く染まるほどの激戦であったことから名付けられたとの伝承があります。

戦場ヶ原戦譚では、赤城山(大蛇)と男体山(大百足)が戦うものの、男体山は苦戦し、奥州の猿に応援を頼むよう常陸の神からアドバイスをされ、駆けつけた猿が赤城山の将の眼を射抜くことにより勝利したとなっています。

【私説】

これまでの記事で、赤城山=ヤマトタケル(ヤマト軍)、男体山=関東王朝(日本軍)であると推定してきました。簡単にするために、今後はヤマト軍と日本軍で戦いの流れの私説を書いていきます。

ヤマト軍は戦場ヶ原で日本軍を打ち破り、峠を下って中禅寺湖の湖畔、菖蒲が浜まで追撃します。
勝負のあった浜から名付けられたのは間違いないかと思います。


街道走った方はご存知かもしれませんが、ここは戦場ヶ原から一段下がった袋小路の場所です。  かつ日光側は湖の湖畔と男体山の裾野に阻まれた場所です。

伝承からすると、ここで奥州軍がヤマト軍の大将を射抜きヤマト軍は戦意喪失。退路も阻まれ追い込まれていき降伏したものと推測出来ます。

今現在二荒山神社ある箇所が日本軍の拠点であり、この湖畔沿いに防衛線があったことが推測されます。

【兵力数の推定】

仮に戦場となった戦場ヶ原から菖蒲が浜まで、ヤマト軍が戦列となって進軍していたり、補給路を確保していたとします。
その場合、菖蒲が浜で大将が射抜かれたとしても、峠の上である戦場ヶ原まで撤退しそこで防衛などしたはずです。

菖蒲が浜で勝負があった、また地形から判断すると、この浜にヤマト軍の全軍が集結し、かつ峠の退路も絶たれたと推測されます。

この沼地の菖蒲が浜に目一杯ヤマト軍がいたと仮定しても千人というところでしょうか。

戦場ヶ原の戦いは両軍合わせて数千人いなかったかと推定されます。


【男体山連山の神々】

男体山、女峰山、太郎山はそれぞれ大国主、宗像三女神のタキリビメ、そして子のアヂスキタカヒコネが祭られています。

戦場ヶ原戦譚における男体山に勝利をもたらした奥州の援軍の将は、この「アヂスキタカヒコネ」ではないか?と推測しました。

古事記の中で大御神とされているのは、天照大御神とアヂスキタカヒコネだけです。非常に重要な人物です。 
【私説の根拠】

    根拠は数多くありますが、その一例を書いておきます。
 奥日光と群馬県の境にある日光白根山の西側にはヤマトタケルの伝承が数多く残っています。それに対して戦場ヶ原より東、日光側には目につく伝承、地名などが見られないこと。

 また記紀による行軍でも、定説では赤城山から西に退却(凱旋?)している。 

 大雑把には以上から戦場ヶ原で西から侵攻してきたのはヤマトタケルであると推測しています。

dce7f654



【ヤマト王権と日本王権】

現在、ヤマト王権の初代天皇は崇神天皇が有力視されています。
私は、その子豊城入彦命が北関東で建国したのが「日本王権」であると推測しています。
詳細はまた後程記事にいたします。   

ちなみに記憶では、小説家であり「逆説の日本史」の作家井沢元彦氏は、日本は奥州、東北地方にあった国である、と推測していたかと思います。
かなり大雑把になりましたが、詳細は順次記事にしていきます。



【江戸幕府が日光を崇拝した理由】

徳川家康、特に天海が日光を神聖視していますが、
その理由は、この戦場ヶ原での東国の勝利と、天照大御神と同等待遇されているアヂスキタカヒコネの神話かと考えられます。
この伝説をもとに「江戸公儀(幕府)は朝廷と同等である。天皇と将軍(大君)は同等である」という江戸公儀(幕府)の正当性、根拠としようと画策した節がちらちら見え隠れします。

南光坊天海が崇伝と共に重用されたのは、後々、朝廷とは別個の独立した徳川王朝を設立しようという計画もあったのではないかと考えています。

そのために、過去にヤマト国家と対等であった日本国家、そして勝利した戦場ヶ原、日光を特別視したのではないかと。

徳川家康は関が原の戦いの後、豊臣政権との両立をぎりぎりまで考えていたというのが現在の有力な説です。

家康が天海、日光を重宝したのは、この豊臣家と徳川家の両立の構想の解決策をそこに見出したからではないかと考えています。

朝廷の関白としての豊臣家、別朝廷(大君号王権)を新設して両立を図れると考えたのではないでしょうか。

後に将軍のことを「大君(おおきみ)」と外交儀礼上使用したのもその名残かと考えられます。

ただ、結局1615年に豊臣家を滅ぼさざるを得ず、家康にとって新朝廷を設立する動機がなくなりました。
そして豊臣家を滅ぼす決意を固めた時、徳川王朝構想も不要となり、朝廷と江戸幕府の共存という鎌倉幕府時代の体制を構想したのではないかと。

そして豊臣家を滅ぼした直後1ヶ月後に、禁中並公家諸法度を制定し朝廷の権威を統制し始めたのかと推測します。


まとまりませんでしたがまた徒然。