こんばんは。

引き続き「前方後円墳は日光戦場ヶ原のモニュメント」という私説の雑記を書きます。

【私説の概要】

倭国の大乱?空白の3世紀後半頃、畿内には北九州から東遷したヤマト王権があり、出雲、吉備といった国々を征伐した。しかし関東にはヤマト王権の別系統の氏族が茨城、栃木、群馬、南奥州を勢力圏とした国「日本」があった。この日本とヤマトが戦場ヶ原で戦い、ヤマトタケルは敗れた。
 


最近戦場ヶ原の神話を知り、ロマンチック街道(水上~戦場ヶ原~日光)、渡良瀬川渓谷(前橋~渡良瀬~日光)を走ってきました。

群馬県側のロマンチック街道にはヤマトタケルを彷彿させる地名等がドライブしながらも顕著に確認出来ましたが、渡良瀬川はまったくなし。わたらせ渓谷鉄道の無人駅巡りくらいしか出来ませんでした。



【渡良瀬川の名前の由来】

渡良瀬川というと、自分の年代の方はあのアイドルの歌、カラオケでよく歌われてたな・・・というイメージとともに、なぜこんな風流な…?と思ってた方も多いかと思います。

この名前だけで素敵なイメージがあります。

調べたところ、日光・中禅寺湖を発見した僧がこの川を渡る際に良い瀬を見つけたことが由来とのことです。

???

ただの当て字、後付けの伝承ではないか・・・と。
「わたらせ(ない)かわ」かと思ってました。


群馬・栃木、そして日光周辺の地理・地形、戦場ヶ原の伝承から判断すると、この渡良瀬川をやはりヤマトタケルは赤城山方面からの進軍を妨げられ渡らせてもらえなかった・・・と推測されます。


【戦場ヶ原・日光の地形】

戦場ヶ原の伝承をざっくり書きます。
中禅寺湖を巡って日光の男体山(大蛇)と群馬の赤城山(大百足)が戦い、応援に駆けつけた奥州が大百足を射抜いて男体山は勝利した。

日光から中禅寺湖、戦場ヶ原に行ったことのある方はご存知かと思いますが、一軒家で例えると、東照宮は1階、中禅寺湖は2階、戦場ヶ原はロフト(屋根裏)のような地形です。

この伝承を知らなくても、日本で一番高い標高にある中禅寺湖や男体山、戦場ヶ原は神秘さを感じさせられます。なんでこんな奥地で舞台に上げられたように戦いが行われたのか?と考えると、やはり神々の戦い、神話かもと思わざるをえません。

ただ改めて、群馬・栃木の地図、日光の地形などを見直すと、日光の戦略的な重要性や日光一帯が難攻不落の城であった可能性に気づかされます。そして戦場ヶ原の伝承は実際にあったのかもと。

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【ヤマトタケルの苦難】

赤城山のほうから軍事拠点であったであろう日光に進軍するには3つのコースが想定出来ます。
進軍が容易でありそうな方からあげていくと、

⑴ 平野(利根川・渡良瀬川)コース。南に大きく迂回して平野部を進軍。
⑵ 渡良瀬川(渓谷)コース。
⑶ 日光白根山・戦場ヶ原コース。ロマンチック街道。

⑶は本当に最後の手段、コースであることはドライブするとよくわかるかと思います。白根山の峠越えも相当に大変で、万が一敗戦して退路となるとほぼ絶望的なコースです。結果的に退路となったっぽいですが…

⑵は⑶ほど厳しくはありません。現在はトンネルとなっている峠もありますが⑶ほどではないかと。

通常だと⑴コース(旧東山道)を選択すると思いますが、⑵と同様、渡良瀬川・利根川の対岸に拠点があると厳しそうです。

これはなんの第1次資料もない仮説ですが、ヤマトタケル(ヤマト王権)の敵である関東(日本)王権は、足利市、太田市辺りに拠点(城)を築き行く手を阻んでいたと考えられます。

余談ですが、⑴のコースにあたる足利学校が日本の名城100選に選ばれていて、城じゃないのに???名城・・・と。
ただ前面に利根川、背面に日光山隗という立地からすると、古代から重要な戦略拠点になっていた可能性があります。

ヤマトタケルはやむを得ず赤城山→日光白根山→戦場ヶ原へと進軍したのかと考えられます。

また本拠地であった日光(二荒山神社)から関東軍が出撃し湖畔の二荒山神社中宮を拠点に戦場ヶ原に展開してたと考えられます。

長くなったので、本題の日光東照宮は古代の難攻不落の城跡の可能性はまた徒然。