こんばんは。
江戸幕府御三家配置の私説を書いていきます。
定説では「戦略的・地政学的な要所」に置かれたとよく言われています。
wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%BE%A1%E4%B8%89%E5%AE%B6
Wikipediaによると「将軍家宗家存続のため」が主でありそうです。
実際にそのように機能してきました。
「なぜ水戸?名古屋?和歌山?」という素朴な疑問がこれまで自分にはありました。
特に和歌山(紀伊)。検索してみると、やはり同じような疑問を持つ人が多いこともわかりました。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8350256.html
日本史好きな人な人だったら「もし江戸以外に御三家を置くとしたらどこに置きますか?」という質問に対して、自分も含めて多くの人が
⑴ 名古屋(尾張)
⑵ 京都or大阪
⑶ 福岡(大宰府)
を上げるのではないでしょうか。
これは鎌倉幕府・室町幕府の体制や日本史の推移から、江戸以外で要所になっていることから模範解答になると思います。
だからこそ「江戸幕府の御三家の配置」が日本史中世史マニアからすると違和感を覚えるのです。
【地政学的・戦略的な意味は皆無】
もし純粋に軍事的・戦略的な意図があるとすれば、水戸ではなく奥州街道沿いの宇都宮近辺に。和歌山ではなく大阪にしたと考えられます。
※ ただ大阪にすると徳川家内部抗争防止という観点からありえないとも思いますが。
【御三家は思想・イデオロギーで場所が決められた】
戦場ヶ原・日光の記事をこれまで書いてきましたが、御三家の配置も日光東照宮と同じ思想で水戸(常陸)、名古屋(尾張)、和歌山(紀伊)に置かれた可能性が高いと考えられます。
この常陸・尾張・紀伊は記紀神話において重要な舞台であったことからそう推測しました。
常陸は高天原神話でも有力な候補地の一つであり、新井白石は常陸説を唱えています。
紀伊、紀之國は神話にそのまま出てくる舞台。
尾張は熱田神宮、草薙剣しか自分は正直思いつかないのですが、もう少し勉強してみたいと思います。
ただいずれにしても、記紀といった神話で重要な場所であることは確かです。
この配置にも日光・戦場ヶ原(東が西に勝った)の意味、南天坊天海らの思想・イデオロギーが関与している可能性があると感じられます。
【雑記】
日光から中禅寺湖・戦場ヶ原~日光白根山~という日本ロマンティック街道をドライブしましたが、トンネル(峠)を越えた群馬県内には改めて武尊などヤマトタケル関連の地名が多くて驚きました。
20代の頃、スキー・スノボで何度か川場スキー場に行きましたが、この時に「なんで武尊山??ヤマトタケル?」と驚いて埼玉の人に聞いたのを覚えています。この埼玉の人から前方後円墳が埼玉にいっぱいあると聞いたのですが。
10年前は古事記・日本書紀など全く興味がなかったため、そのまま記憶の奥底にしまいましたが。ここのスキー場は狭いながらも初心者から中級者混在でも楽しめるから使える!というイメージだけが残ってました。
【戦場ヶ原神話雑記・一部修正】
戦場ヶ原で男体山が苦戦しながらも奥州の協力を得て赤城山を破ったという神話、これは日本(関東)王権がヤマト(タケル)王権に勝利した神話である可能性について書いてきました。
日光は東が西に勝利したという意味があり、そこを神聖化することにより、江戸幕府は京の朝廷に対し政治的な圧力を掛けていたことになります。
この関東王朝の由来ですが、現在の定説とも言える高校の教科書や資料集に何かヒントはないかと探しましたが、残念ながら特定出来ませんでした。ただヤマト王権は連合王権で、群馬・栃木などを地盤とした毛野も一大勢力であったことを初めて知りました。
戦場ヶ原の戦いは、当初、国家vs国家と考えていましたが、ヤマト王権の内戦・反乱?という線もまだ捨ててません。天孫降臨族の一派が常陸を中心とした北関東にヤマト王権内に国を築き「日本」という国名にしたのかな・・・という中間的な私説になってしまいそうです。
前方後円墳は戦場ヶ原のモニュメント説の補足ですが、勝利した男体山(日本?関東王朝)の「男」が重要ですが、ヤマト王権の女系に対して男系を主張して政争となり勝利した可能性も探っています。
オカルトっぽくなりますが、前方後円墳の円である男体山と女峰山の間に「太郎山」があります。
これは当初、ヤマトと日本が融合して新しい国が出来たと考えていましたが、単に「男子が国家継承者」という意味で太郎と名付けたのかもしれないとも・・・
長くなってしまったのでまた徒然。
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