こんばんは。    

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先々週大磯に行った際、知人と湘南平など地名には色々な歴史や意味がある話をしていました。

日光の戦場ヶ原は誰と誰の戦いだったのか?と聞かれて…。

そういえば知らないな…ということで調べてみました。

先にこの2週間で大雑把に推理した私説の結論を書きます。


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・戦場ヶ原はヤマトタケルと関東の王朝の大合戦が由来。ヤマトタケル(ヤマト王朝)は関東王朝に敗北。

・関東王朝がヤマト王朝に政治的な進出をし権勢を強める。

・前方後円墳の由来は戦場ヶ原の戦いの関東王朝の勝利を意味する。戦場ヶ原から見た山々。円は男体山・方は女峰山を意味する。


・関東王朝は支配圏であった北関東を中心に勝利の象徴として建設し、ヤマト王朝内で権勢を強めた同氏族が畿内においても建設。

・前方後円墳は勝利の象徴とともに東西の融合の象徴でもある。

・仮に戦場ヶ原の戦いが東対西であり伝承として伝わったとすると、東照宮が日光に建てられた意味等がすっきりする。


・この関東王朝が毛野国か常陸国、天孫降臨族かは不明だが「日本」という国名。



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【伝承・伝説】 


群馬県は元々ヤマトタケルの伝説が多いですが、かつ埼玉県北部と群馬県は前方後円墳が多いという考古学的な事実もあります。

以下、今回初めて知った伝承、伝説を書きます。


⑴ 戦場ヶ原は「大蛇(男体山)と大百足(赤城山)が戦い大蛇が勝ったという伝説がある」


⑵ 男体山は別称「二荒山」と呼ばれ、「東北側の女峰山」と対で付けられことが由来。 


⑶ 戦場ヶ原の西側(日光白根山の近)に「武尊山」がありヤマトタケルの伝説がある。 


⑷ 赤城山の北にある老神温泉に「この戦いで落ち延びてきた神が傷を癒したという伝承。 


⑸ 武尊山麓ではヤマトタケルが病床にあったという伝承。


これを記紀の時代に照らし合わせて素直に考えると私説のように推測します。


【私説】 


奥多摩、秩父から武尊山を経由し、日光白根山方面から進軍してきたヤマトタケルとその敵が戦場ヶ原で合戦をした。 


ヤマトタケルは敗北し負傷し、武尊山から赤城山近辺で療養していた。


となるかと思います。



【通説のヤマトタケル】

       
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足柄峠→山梨→雁坂峠(秩父)→碓氷峠→信濃→熱田→伊吹山


【私説のヤマトタケル】

足柄峠→山梨→奥多摩→秩父 
→武尊山
→戦場ヶ原 (敗戦・重症)
→赤城山 (療養)
→嬬恋吾妻 (あー妻よ!と悼みながらかつ自身の戦場ヶ原の敗戦を嘆く)
→信濃…

この傷が元になって熱田で病状に。伊吹山は越えられないと悟る。


【律令国家時代の謎歴史】

⑴ 律令時代に五畿七道が制定されたが北関東の上野・下野は東山道。(当初は武蔵も) 


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⑵ 親王が国守として任ぜられた親王任国は常陸国、上総国、上野国の3国のみ。


⑶ 道鏡事件の際、血筋でない道鏡に譲位していいか、宇佐八幡宮に神託を仰いでいる。 ⇒ 皇位継承者は九州が源となった氏族 、王朝


⑷ 藤原氏の氏神とする春日大社の元は茨城の香取神宮、鹿島神宮。

これは歴史的事実にしても非常に違和感がありますよね。


鎌倉幕府以降現代に至るまで、上野(群馬)・群馬(栃木)は関東圏となっています。 実際に地形学上もそれが自然であり、その後の歴史も東国・関東と一体圏をなしています。


畿内を中心とした関西から九州が中心だった大和王朝(倭)が、なぜ親王任国を関東だけの3か国にしたのか?
親王任国といっても実際には国に赴いていたわけではなく名誉職に近いものですが、この3か国を重視していたのが非常に不思議です。


現在の群馬・栃木・茨城・千葉は山脈・大河といった地形的な障害ではなく、支配権といった問題がヤマト王朝にあったことが分かります。


【2017.8.23追記】
※  東北のマタギの伝承によると、9世紀半ば頃の平安時代、赤城山と戦って苦戦してた男体山に勝利を貢献したとして特権を認められたとある。戦場ヶ原の戦いは平安時代に発生したとするとヤマトタケルは関係なくなる。


また徒然。


【続き】前方後円墳は戦場ヶ原のモニュメント説-ヤマトタケル(ヤマト王朝)の敗戦⑵

 その影響は畿内での前方後円墳の建設、仏教の導入、漢字の輸入へとつながったという私説

http://ezohiro.blog.jp/archives/17980859.html