こんばんは。

戦国時代が好きな人の多くは「信長の野望」という光栄のゲームの影響からという人が多いと思います。
それ以前から織田信長の人気はあったようですが、30年ほど前の信長ブームが決定的になったかと。

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織田信長の天才的な思考に惹かれますが、その一方で人格について一般的な現在のイメージは
・無神論(宗教嫌い)
・冷徹
・短気
・残虐
といった「怖い人」というイメージが強く、そのイメージが先行しています。

最近はこの行き過ぎた虚像を見直す動きがありますが、こういった人格の評価となった大事件は
・比叡山焼き討ち
・一向一揆との激しい争い
・現在の大阪城に籠城した本願寺との10年戦争
こういった大規模な戦いからのイメージが強いです。

信長公記等を読んでると、統治者(政治家)としての政策・戦略は確かに論理的かつ冷徹ですが、一個人としての考え方や言動はむしろ他の大名にはない気配りや優しさ等が目立ちます。
確かに本能寺の変直前の頃は「自身を現世の神と見立てた」寺を建立したりして行き過ぎの感はありますが。

室町幕府の将軍で「恐怖政治」と世間から言われた足利義教がいます。
肖像画が織田信長に似ていることから、性格・人格も織田信長のようだったのではないか?とよく言われます。
短気とか冷徹、また最後は重臣の謀反によって短命に終わったことも「似ている」という評価です。

織田信長の一個人としての言動等は、公記では「残虐・冷徹」というエピソードは意外にそれほど多くなく、実は「足利義教」のエピソードを重複・流用して織田信長の人間像に仕立てたのではないか・・・と思うことが多々あります。

足利義教は仏門に入っていたにも関わらず、くじ引きによって突如将軍となっています。
室町幕府は足利一門も含め大名の連合幕府であり、足利義教は当初から将軍の権力の獲得に苦労しています。むしろ経済的・地盤的に優位に立つ重臣(有力大名)との権力闘争や政治闘争から、徐々に強硬となっていきます。
その頃の義教のエピソードが、織田信長のエピソードとなっているような事象もしばしば見受けられます。

また反対に、織田信長の比叡山焼き討ちや本願寺に対する姿勢等は、足利義教の「焼き討ち」という前例を参考にした節があります。

明智光秀は織田信長に最後の最後まで重宝されていたと考えられます。
本能寺の変の怨恨説も、おそらく「足利義教の赤松氏による暗殺事件」が元になったのではないか・・・と自分は推測しています。

本題の太上天皇になった足利義満は次に・・・